『雄辯』を成功させた清治が次に考えたのが、「講談や落語のように一般大衆に親しまれている娯楽を活字にした雑誌ができないだろうか」ということだった。
『南総里見八犬伝』のような勧善懲悪の活劇モノや、『忠臣蔵』のような仁義忠孝の伝説などを講談師が語り聞かせるのが講談である。同じ落語でも落語家によって差し挟む小話や、ストーリー展開が微妙に違ってくるように、講談師の特徴によって民衆からの人気の度合いも違った。
「滑稽な物語とか、日常生活のユーモアとか、洒落に満ちた話。こういうものも、人生には欠かせない。『笑い』の価値は意外に大きいということを忘れてはいけない。これがないと、人間にも世間にも味がなくなるし余裕(ゆとり)がなくなってしまう」
講談倶楽部の誕生
清治は硬派の雑誌、軟派な雑誌、いずれも人生に必要だと看破していた。『雄辯』で政治家や知識人の演説を雑誌に掲載した彼が、より大衆的な“娯楽”“笑い”を活字にしたいと考えたのは当然だろう。
こうした経緯を経て、清治が創刊したふたつめの雑誌が『講談倶楽部』である。
「大日本雄弁会」から軟派雑誌を出すことに抵抗した周囲の意見を入れ、彼は「大日本雄弁会」という看板の隣に「講談社」というもう一つの看板を掲げる。
「大日本雄弁会・講談社」。ここから講談社という名が生まれた。
政治・経済など世の中で起こっている事象=ノンフィクション=についてのオピニオンを掲載する雑誌が『雄弁』、血湧き肉躍る空想の世界=フィクション=を掲載した雑誌が『講談倶楽部』。創業から続く社業の流れは、そのまま現在へと至る。
『雄弁』のスピリットは『週刊現代』や『フライデー』、学芸出版などのノンフィクション分野へ。『講談倶楽部』の世界は『少年マガジン』『モーニング』『なかよし』、あるいは文芸出版へと受け継がれているのである。
看板は掲げたが、速記録以外には何一つない。雑誌を作る資金を出してくれる会社を探したが、つてもない清治に資金を用立ててくれる発行元はなかなか現れなかった。
年を越して1910年となった1月のある日、本郷を歩いていた清治は自動電話(現在の公衆電話)のボックスに飛び込み、電話帳のなかから「大日本」とついている社名を探した。「大日本図書株式会社」という名前が目に留まった。その足で本郷から銀座の一等地にあった大日本図書まで歩いた清治は、支配人に雑誌の構想を熱く語り、速記録を見せ、ついに発行元になってもらう了承を得る。
そのころの社員らしき人間は、書記の仕事をしながら夜に雑誌を作る清治の元に転がり込んできた知人2名。その他に友人知人の学生たちが立ち寄り、編集作業を行っていた。実際のところは編集作業などといえるようなものではなく、会議のかたわら、夢を語り合い壮大なほらを吹いたりして景気づけをするような毎日だった。いまのサークル活動のようなものだ。
印刷所も驚きの雑誌作り
清治も編集作業などしたことはない。資金を手にしていよいよ雑誌を作ることができることになった清治は、印刷所に行き、原稿の束を渡しながらこう言った。
「しかるべく順序を立ててください。活字の大きさとか行間とか小見出し等については、ご研究の上よろしく願います」
要は、何も知らないのだ。慌てたのは印刷所で、「書体はどうするのか」「どの演説原稿を先にするのか」と聞いてきた。清治は再び「そちらで適当にやってください」と答えながら、“活字の大きさなんて世間の雑誌を見ればだいたいわかりそうなもんだ。いちいち聞いてくるなんて、どうも頭が悪いな”と自分のことを棚に上げて思っていたという。
こうして1910年2月、雑誌『雄辯(ゆうべん)』が創刊された。
にわかづくりの雑誌だったが、『雄辯』創刊号は6000部を即日に売り切った。東京の書店では4時間で店頭から消えたという逸話が残っている。
2009年に講談社は100周年を迎える。1909年(明治42年)、講談社は当時30歳の野間清治(せいじ)によって創業された。
この講演は人々が望んでいるのになぜ公開されないのか。
その疑問が雑誌創刊のきっかけだった。
1909年(明治42年)11月14日、野間清治は東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)主席書記の職にあった。このとき、法科大学で弁論部(緑会)が設立されることになり、清治はその設立演説会の速記録を取ることになる。
時は日露戦争直後。維新後の急速な西洋化を経て“大国”ロシアに戦争で勝ち、世界列強の仲間入りをしたと沸き返る時代である。志を持つ学生たちが、政局を唱え世論を喚起するためあちこちで「演説会」を開催し、一般民衆がその弁舌を聞きに押しかけていた。
市井の人々が聞くことのできる立ち会い演説会はどこも満員だというのに、大学での講演は、内部の学生だけに聞かせるべきものと考えられており、一般には公開されない……若き清治は、緑会設立演説会の速記を取りながらこう考えた。
「大学の講演は、帝大の学生だけに聞かせて外部には一言も漏らすべきものでないと考えられている。学者は専門以外の雑誌にはあまり書きもせず、語りもしない。偉大な教授たちや天下に名の聞こえた人々の講演を世間一般の人々が聞けるということになったら、どんなにいいだろう!
今、自分の手元には速記録がある。これを材料に雑誌を作り、次代の若者、一般の人々に対してよい演説の模範としたらどうだろうか」
テレビもラジオもない時代。言論を記録し多くの人に知らせる方法は、印刷物だけである。しかも、それまでの“本”とは、文語体(書き言葉や漢文)で記されるものとされていた。しかし清治はこうした考えに囚われることはない。
演説会から1ヵ月とたたない11月末頃、清治は団子坂下の借家に「大日本雄弁会」と大書した看板を掲げる。講談社の創業だった。